2010年6月30日水曜日

「青空はしゃべらない」(歌詩集「太陽のとげ」に所収)

この歌は、高校生の頃、校庭の土手に寝転んで、じっと青空を見つめていた頃のことを思い出しながら作った歌です。

青空をじっと見つめていると、逆に青空の方から心の中を見つめられている気がして来て、なにかしら「天の眼」を感じたものです。チベットのラマ教のゾクチェンのお坊さんたちが、見晴らしのいい丘に座って、じっと青空を見つめる訓練を修行としてしているそうです。(中沢新一『三万年の死の教え』)なにか「神」のようなもの、「Something Great」と対峙している姿が思い浮かびます。
「チベットの青空」って、どんな青空なんでしょうかね?きっと「真っ青な」青空、「蒼穹 」ということばがぴったりの青空なんでしょうね?
そういえば、イスラムの「アッラーの神」も、砂漠を横断する隊商たちが感じた「青空の神」(もちろん「太陽」がその中心なのでしょうが・・・)なのかもしれません。何日も雲ひとつない青空の下を歩いていると、天の方からなにものかにじっと見つめられているような気がするのではないでしょうか?ぼくが高校生の頃感じた「天の眼」よりも、もっと強烈な「眼」を感じていたのではないか、と思えます。(ちみなに私は今のところ、どんな宗教の「信者」でもありませんが・・・)

ところで、この曲を作っているとき、青空は単に「見つめている」だけではなくて、ニンゲンも含め、この地球のすべての生き物たちがつぶやいていることばや、おしゃべりしていることばをじっと「聴いてくれている」感じもしてきました。しかも、「天の父」がなにかを問いただすように「見つめる」のではなくて、そっと「耳を澄ませて聴いてくれている」母親の耳のようなやさしいイメージが湧いてきました。「天の鼓膜」ということばは、そのときにふっと出て来たことばです。

詩のことばの感じ方、歌の聴き方はひとそれぞれでいいと思いますが、僕なりに感じたことを書いておきます。(これからも、書いていきます。)

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