2010年7月18日日曜日

「サバンナ」(「太陽のとげ」所収)

人類が樹上からサバンナに降り立ったのは、いつのことだろう?と想像を巡らせることは、とてもロマンのあることです。
ところがいまや人類(今の私たちに繋がる祖先)がホモ(属)・サピエンス(種)として今日に到る最初の出発がどこだったのか、いつ頃のことだったのかは、いろんな説があって私たち素人には「これだ!」ということはなかなか言えません。

が、手短な本(注1)を参考にして、すこし想像を巡らせてみますと・・・

人類の祖先が、同じ霊長目であるチンパンジーなどとは分かれて、生物として別の道を歩き始めた(犬歯の縮小、直立二足歩行を推定させる大後頭孔の位置などがその特徴)といわれるのが、およそ700万年前。猿人としての人類がはっきりと直立二足歩行していたとされるのが、約350万年前(タンザニアのラエトリでアウストラピテクス・アファレンシスが歩いたと思われる足跡しかも家族で歩いていたと推測させる足跡が土の化石として発見されている)。
そして、その後(300万年前から250万年前頃)気候の乾燥化から森が縮小し、本格的に広がりはじめたアフリカの「草原(サバンナ)」という新しい環境のなかで(それまで人類は「森」が生活の中心の場であったと推定されている)、人類はいわゆる「人間らしい」特徴をゆっくりと形成していった・・・

ということが、この本から思い描かれます。

 私が、アフリカの「サバンナ」に私たちの祖先の匂いを感じとるのには、それなりの根拠があるようです。

ところで、この「サバンナ」という歌は、もともと「キリンの子供が死んだ」という一行の言葉が5回繰り返される(終わりの方で「雨のサバンナのなかで」という言葉が入りますが・・・)リフレインで、いたってシンプルな歌です。メロディがシンプルな分だけ、たぶん「声」が大事なんだと思います。
私の「声」が、この「歌」を歌うのにふさわしい声なのかどうか分かりませんが、そういうことを意識して歌ってはいます。(この歌を聴かれた方で感想があれば、聞かせてください。)

村上春樹の「歌は終わった。しかし、メロディーはまだ鳴り響いている。」(「羊をめぐる冒険」 )ではありませんが、歌が終わった後もしばらく、皆さんの心に「サバンナ」のキリンの家族の情景が、あるいはキリンの子供に対する家族(お母さんやお父さん)の思いが、残像のように呼び起こされたらいいな、と思っています。

詩に添えられているテレビ画面の映像(写真)は、咄嗟に私がカメラを向けて撮った映像で、いまやどこのテレビ局の映像だったのか、おぼえていません。キリンの子供を探す、キリンのお父さんとお母さんの物悲しげな姿を見て、本当に「咄嗟」に撮った映像です。(歌詩集「風が孵化する」をクリックしても「みんくまSongs」をクリックしても、「映像」を見ることができます。)

この「歌」を聴いて、生きるものの「悲しみ」をすこしでも感じとってもらえたらいいな、と思っています。そして、私がよく「死」にまつわることを「詩」として表現し、それを「歌」にして歌っているのは、おそらく「死」という出来事は、「生きようとしていた生命」にとっては、どんな死に方をしても、絶対に「平等」なんだ、ということを感じとっているからだと思います。
人間でいえば、どんな人がどんな死に方をしても、「死んだ」という事実の重みにはなんの違いもないんだ、ということです。
(「この世に生まれた」という事実の重みになんの違いもないように・・・)

「歌」はまだ、そして「声」もまた、ひとの「心」になにかを伝える(あるいは、なにかを喚起させる)「力」を持っているのだと思います。

(注1):三井誠『人類進化の700万年ー書き換えられる「ヒトの起源」』講談社現代新書

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